Designeast05 Camp in Kyoto

「デザインする状況をデザインする」を移動しながら考えるシンポジウム・ワークショップの開催

DESIGNEAST05 CAMP in Kyoto -MOVING DAY-

2014年7月26-7日、DESIGNEAST05は 京都市左京区の北部にある大見集落にて開催された。
共催:DESIGNEAST京都実行委員会 RAD(川勝真一/榊原充大/木村慎弥/本間智希/佃哲朗)/永谷聡基/大貫茜、協力:大見新村プロジェク ト、広報物デザイン:三重野龍など、関西を中心に活動する仲間と共に廃村の廃校など村全体をキャン プ場に読み替え、「MOVING」について様々な議論や実践が展開された。ゲストには建築家の森田一弥、グラフィックデザイナーの飯田将平、ファブラボ北加賀屋の津田和 俊、なやカフェ(自然発酵を応用したサイダー飲料制作ワークショップと、炊飯用のかまど制作)、森 林食堂(昼食のカレー制作)など、これまでDESIGNEASTにも登壇したことのある有識者らと 共に24時間「村民」として村に滞留した。

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平安時代に荘園として開墾され、鯖街道沿いの村として発展した大見。ここが会場として選ばれた背景には、昭和38年の豪雪による甚大な被害等を契機に集団移転が決定し廃村化した村へ1人で再建を試みる藤井さんの支援を通して、日本の未来像を実践的に検討する「大見新村プロジェクト」がある。大見は住所(京都市左京区)だけを見ると必ずしも田舎とは思われない。しかし、京都市左京区は南北に長い。観光地でもある大原以北の風景は郊外を超えた伝統的な村落の様相を呈し、茅葺屋根にトタンを 被せた大屋根の住宅はこの地域の特徴的な風景の1つだ。それが意味するのは恐らく雪などの外的環境や、林業を中心にした生業に起因するものであろう。そんな住宅が目につくようになれば、そこはラー メン・カフェ・パン・サブカルに象徴される左京区ではない。長い伝統に根ざしたもう1つの左京区 が、市役所前からほんの1時間で顕わとなった。

大見集落は一見のどかな里山に見えるが、不法投棄されたゴミや昨年のDESIGNEAST04 開催中に猛威をふるった台風18号によって倒壊した思子淵神社社殿など、「手つかずの人工物」 も課題として挙げられる。そのような状況下において、大見新村プロジェクトメン バーはゴミ清掃や生分解性トイレ、建築物の改装など、人が生き延びるための環境を整備してきた。しかし、「大見で何かをつくるために、わざわざ都市部のホームセンターで材料を買い、レンタルした車で運んでつくるねじれた状態」と自らが説明するように、そこでの制作活動は「つくる」ー「つかう」 以前の問題として材料の流通と加工技術の問題がある。この問題をMOVINGの1つとして捉える と、人とモノとカネ、パーソナル・ファブリケーションと情報、食品流通と地産地消など様々な問題の存在に気づかされる。MOVING DAYと題されたDESIGNEAST05 CAMP in Kyotoの多様なコンテンツの目的には、これらの多様な問題群に対して村民として考えをめぐらす ことにあった。

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DESIGNEAST05 CAMP in Kyotoはキャンプインセレモニーに始まり、自然発泡のサイダーをつくるワークショップ、集落全体のフィールド調査がまず行われた。実際に集落内を歩くと、その歴史性と同時にかすかな人々の暮らしを感じられた。定期的に週末だけ帰ってくる元村民が農園やお墓、住居の手入れをしているため、集落内の全てが朽ち果てているわけではない。事実、フィールド調査中にも元村民が風呂を湧かしているところを見かけることができた。フィールド調査後には、元小学校校庭に設置された巨大なレーステントの中にダイニングテーブルが用意され、おいしい食べ物 を頂いた。その後、会場を川のそばに移してキャンプファイヤーを囲みながらトークセッションが21時ごろから翌朝6時まで開催された。翌朝は朝食後、雨のなか一休みしてからカレーをつくり、発酵したサイダーを飲んで解散式となった。

キャンプファイヤーを囲んでのトークでは、森田一弥による「渡り職人」についての指摘が興味深いものであった。左官を含む職人たちはかつて、そして今でも、地方で修行をし職人の間で技を交換しあう媒介的存在である。そして技術が流通し洗練することは、それぞれの地方に固有の環境に対して工法、材料、意匠の組み合わせの最適解が自然淘汰させるプロセスと同義である。流動的に様々な情報や人工物が交換されることで文化が維持されてきたプロセスがデジタル化すると、瞬時に流通・交換可能な情報となるが、デジタル化するものづくりは実世界をどのように構築していくことになるのだろうか。モクチン企画代表理事の連くんは、10+1(http://10plus1.jp/monthly/2014/06/issue-4.php) において以下のようにネットワークと実世界の構築としての建築の関係性について提言している:

半世紀後を生きるいま、〈建築〉をネットワークのなかに消去してしまうことを提案したい。 〈建築〉を情報のネットワークのなかに流し込み、造形的制限から解放し、共有可能性を最大限高めることで徹底的に断片化し、関係性のなかから再び建ち現われるその姿を見てみたい。建築が現象するのは、検索システムと統合のテクノロジーが発達した数百年後かもしれないが、そもそも建築とは社会に定着したときに現象する時間を含み込んだ芸術行為ではなかったか。結果として、広場ができたり、縁側ができたり、コモンスペースができたりすることは個別的状況において意味のあることだが、それらはシステムの副産物に過ぎない。現在、建築の側から「公共性」の問題を扱おうとすれば、それは不可視の環境やシステムの設計という問題系を避けて通ることはできないだ ろう。問題の本質を見誤らないようにしなければならない。 いま、建築の建築性は、オブジェクトのなかでもなく、マテリアリティのなかからでもなく、アイコンでもグラフィティでもコモンスペースのなかからでもなく、ネットワークのなかから現象してくるのではないだろうか。 共有可能性の網目にとびこめ、 ネットワークは広大だ。

今日におけるMOVINGは連くんのいうように、双方向型の「交流」から円環型の「流動」や「循環」、そしてインターネットを介したネットワーク型の「共有」へと拡張して考えるべきであろう。だがMOVINGとは心を揺さぶること、感動し、豊かさを感じるという意味も含まれる。造形的制限は様々なアクターネットワークの関係性によって断片化し再構成されうるが、それを利活用する主体は私たちにある。ネットワークが「誰のものでもない」ではなく「誰のものでもある」コモンズとして認識されない限り、そのシステムは目的なき合目的性の追求になりかねない。もしかすると、その目的とは驚くほどに素朴な心のMOVINGではなかろうか。

大見での感動は自然の美しさやコンテンツの素晴らしさだけではなく、「誰のものでもある」状況の中で自分なりの参加の仕方が担保され、楽しむことができた点にもあった。環境にあらがうのではな く、環境を有効に転用しながら自分なりの場を楽しむ。必ずしも効率性、合理性に適うものではないかもしれない名付けえぬ「ゆらぎ」、「あそび」、「ゆとり」ある空間が活発な交流を生んだ事実を大切にしたいと思った。素晴らしい時間を提供してくれた実行委員の皆様に感謝したい。ありがとうございました。

2014年7月27日 帰り道の横浜の喫茶店にて

水野 大二郎


Designeast05 Camp in Kyoto

Mobile symposiums and workshops to discuss the situations surrounding design



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